昭和43年9月21日 夜の御理解


 ただ今から、昭和43年9月21日夜の御理解を頂きます。信心に連れはいらん。信心は誰がするから自分も使用というのじゃあない。自分が信心をさせて頂こうと決めたら、それを貫かして頂くこと。お道の金光様の信心をさせて頂く。それは、確かな教えがあってその教えに基づいた生活をするということが一番ありがたいことであり、それが私どもの願いでなからなればならないのです。けれども、なかなかそれができません。出けてしまわなければ、おかげが受けられんというのじゃあなくて、そうありたいと願わしてもらい、それをそういう精進を日々させて頂いて行くという、そういう辛抱を貫かしてもらう。そこから、おかげ受けられてくるようになる。まあ、一般にどうしてこんなことがと言うようなことがあります。そういうそのどうしてこんなことがあるというような事が一生の傷跡に普通なるわけですけれども、信心を頂いておるとそのどうしてこんなことがあると言うようなことが一生の傷跡にふつうなるわけですけれども、信心を頂いておるとそのどうしてこんな事がと言うことがすべておかげになっておる本当にあの人は良い人だった。あの人は幸せは、生まれつきだと言うような人でもその幸せと思われておったことがかえって不幸せの元になっておるような事もある。信心させて頂くものはもうぎりぎり一生が幸せになって行くことのためにすべて生きてくる。ただ今は、御神前で拝語というのがありますね。塩田鶴吉さんと言う人が今はおられませんれども、私が北京に参りますとお世話をしてくださったおじさんですけれども、そのほうのまあなくなっておられませんけれども、生前の姿を頂いたんです。御霊さんのお祭りも近づいて来ておる。言うならば、私の恩人でもある今から考えてみると、今度御霊様のお祭りの時、あの御霊様もお招きして慰め申し上げたいと言うふうな事を私は考えたんですけれども。例えば、私が外地に行かず、内地におったら、現在の道は開けてないと私が北京に参りまして10年間、そして終戦によって裸で引き上げてくるような、いうなら、不幸せであるその難儀に直面させて頂いて。けれども、おかげでここながら続けさせて頂いた信心がまあおかげで今日こうやっておかげを頂いておる。それから、思わしてもらうのにですね。本当にあの時、世話してくださっていなかったら、この一念のおかげを頂いてそれは裸で引き上げてこなければならないことは、なかったかもしれん。けれども、結局そのことがすべて生きてきておかげになってきておる。私がまあ、幸せになっていくとああして北京にせわしてもらったおかげでこういう難儀になったということになるかもしれませんけれども、そこんところがですね。信心は、それがおかげで今日おかげを頂いておる。たどって行って見ると、結局は塩田鶴吉さんが私を北京の松田酒造合名会社と言う会社に世話してくださったと言うことがですね。まあ、いうなら、元をたどれば、前がずーっとありましょうけれどもですね。そのおかげで今日私はおかげを頂いておる。北京でまあ、それは良いこと、悪いことございました。結局致命的なのは、戦争であり、又、終戦である。だから、そこまでだったら、あの人からこの人から、世話してもらっておったから、こう言うことになったとなるのですけれども、そこが私共がおかげを頂いてから細々ながら、信心を続けて来ておった。信心は連れはいらんと連れがあったり、連れがやめたら、自分もやめらん様なことになるけれども、自分自身が神様におすがりしなければ、人間の幸せにはなれないと言うような****の確信を持ち続けておかげを頂いて来た。だから、信心が本当に貫き続けられて、そして例えば、教えが一つ一つ身についてくるといわなければ、おかげにならんというのではなくて、なかなかできませんけれども、それをそうありたいと願いながら、続けていきよる中におかげを頂く。また、力を頂く、そして出来なかったことも出来るようになり、守れなかった教えも守れるようになり、もうだんだん免角金光様の御信心を頂いておれば、頂いてさえおれば、とにかく段々道が開けて行き、だんだんおかげを頂くということだけは、はっきり言えれる。ですから、お互いしっかり周囲ではない一人**目指して行ったような信心をさせて頂くと同時にやはり、たえず、改まらして頂くことに努めての信心修行がなされていかなければならん。そこに過去の一切がどういう難儀な元であってもことであってもその難儀と思われてあった事が難儀のおかげと言うように難儀が全て生きてくる。そこにたとえば、私が70年なら、70年のお生かしのおかげを頂くとしてです。70年間という、いれば、所に立ってこう眺めたときにあれもおかげであった。これはおかげであったというおかげになってきておればよいのです。だから、そういう例えば、なら生きた手本と言うものをですね。生きた見本を私は作って行かなければならない。そして、金光様の信心は止めなさんなと金光様の信心はどんな苦しい時あっても頂いて頂き抜いて行きなさいとそれだけをですね。皆さんに言うて、そしてこういうおかげを頂けるという最高のおかげを頂きたいと私は思うのです。そこを一つ連れのいるような信心では駄目。だれが何と言うても自分一人で密かに信心し抜いて行くと言う私は信心が必要だとこう思うですね。どうぞ。